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論述講座 第3回 No.7

No.7

【問題】リード文は省略。下線部(1955年の会議)について、この会議の経緯と意義を100字以内で述べよ。

【解答例】

アジア=アフリカ会議は、前年のコロンボ会議の結果からインドネシアのバンドンで開かれた。ネルー周恩来会談の平和五原則を発展させた平和十原則が採択され、東西陣営いずれにも属さない第三勢力が形成された。(99字)

 

【分析】

主題:バンドン会議の経緯と意義を100字以内で述べよ。

条件:特にないが、経緯を述べることから、会議名を入れる必要がでてくるだろう。

 

【ポイント・見通し】KP297

バンドン会議の前段階

①1954年のコロンボ会議で、バンドン(アジア=アフリカ)会議の開催が決められた。

②1954年のネルー周恩来会談での「平和五原則」から影響を受けた。

○開催:インドネシアのバンドンで、第一回アジア=アフリカ会議が開催された。

 ※アジア・アフリカの新興独立国29カ国が参加した、史上初の有色人種だけの国際会議。バンドン(インドネシア)で開催され、ネルースカルノ周恩来が主導した。

○意義

①平和五原則を発展させた、平和十原則が採択された。

②米ソ(東西)両陣営のいずれにも属さない、平和・自主外交を旨とする第三勢力が形成された。

 

【調整】

様々な書き様がある問題である。

○アジア=アフリカ会議でもバンドン会議でもよい。

スカルノネルーらが主導したことを書いてもよい。

○よりまとめて、中立・自主外交を行うアジア・アフリカの指導者が生まれたことも書ける。

 

【この後】

1961年:第一回非同盟諸国首脳会議

・ アジア・アフリカにラテンアメリカ諸国も加えた25カ国が参加した。ユーゴスラヴィア大統領ティトー、エジプト大統領ナセル、ネルーの提唱で、ユーゴスラヴィアベオグラードで開催された。

・ 開催の背景・・・アルジェリアに対するフランスの弾圧、「ベルリン」の壁建設開始。

・ 【内容】①平和共存 ②民族解放闘争支持 ③外国軍事基地一掃 ④新旧植民地主義反対→第三勢力の発言力が上がった。

 

【問題】

インドシナからの撤退と同じ頃、フランスにとって大きな問題であったのがアルジェリアである。アルジェリア問題がフランス国内にもたらした影響を120字程度で説明しなさい。

【解答例】

アルジェリア独立の賛否をめぐり第四共和制期の国論が二分された。在アルジェリアフランス軍の反乱を契機にド=ゴールが政界に復帰した。危機収束をめざし大統領権限を強化した第五共和国憲法下で大統領に就任した彼が、反対勢力を抑えてアルジェリア問題を解決した。(124字)

 

【分析】

主題:アルジェリア問題がフランス国内にもたらした影響を100字で述べる。

条件:フランス国内に限定される。→アルジェリアよりフランスについて重点的に述べる。

 

【ポイント・見通し】P296

幹:<国内混乱→収束のため、ド=ゴールが復帰>

・ 戦争の長期化と厭戦感からフランス国内がアルジェリア独立に傾くと、独立反対を主張するアルジェリア駐留フランス軍が反乱をおこし、本国への進攻を企てる。

・ 危機を処理できなかった第四共和政が倒れ、第五共和政が成立する(1958年10月)。第五共和制憲法で大統領権限が強化される。→ド=ゴールが大統領に就任し、反体勢力を抑えてアルジェリア問題の解決を図った。

 

【調整】

フランス国内への影響を優先的にピックアップする。

アルジェリア独立の賛否をめぐり、国内世論が二分する。(第四共和制期)

アルジェリア駐留フランス軍の反乱が起こる。

③危機収束のため、ド=ゴールが政界に復帰する。(第五共和政期)

④危機収束のため、大統領権限を強化した第五共和制憲法を制定し、ド=ゴールが大統領に就任する。

 

アルジェリアの独立まで書くかどうか・・・独立の寸前まではアルジェリアもフランス国内(=植民地)であるという解釈もできなくはない。しかし、出題の意図としては上記①〜④の整理にあるだろう。もう少し字数が多ければ、枝情報として書いてもいいだろう。

 

アルジェリアとフランスとスエズ戦争第二次中東戦争)と・・】P296/299

シャルル10世アルジェリア出兵以来、アルジェリアはフランスの植民地であった。

○フランス人入植者(コロン)が増加し、石油などの資源開発を進めた。第二次世界大戦後にはアフリカ民族運動の高揚を背景に独立運動が始まった。

○1954年:アルジェリア民族解放戦線(FLN)がフランスより独立戦争を開始する。

アルジェリア独立戦争を応援する勢力は、コロンとアルジェリアに住むアラブ人(900万人?)であった。当時は第一次中東戦争が、イスラエルアラブ諸国に対する勝利に終わって4〜5年後のことである。アラブ諸国の盟主エジプトは、敗北はアラブ民族の分裂にあるとしてアラブ民族主義を前面に押し出した。そしてエジプト革命(1952年)が起きた。エジプトはさらにアラブ人の団結を進めるため、アルジェリアに住むアラブ人を支援した。ここで、フランスVSアルジェリア+エジプトという構図が出来上がった。これが、1956年の第二次中東戦争スエズ戦争)へと繋がっていく。よって第二次中東戦争はイギリス・フランス・イスラエルVSエジプトであると理解できる。イギリスはスエズ運河国有化に反発したという点で整理しておけばいい。

 

 

【問題】1980年代から、ポーランドをはじめとする東欧では民主化運動が活発化し、東欧の諸革命へと連動し、社会主義政権は崩壊した。この「東欧の諸革命」について150字以内で説明せよ。

 

【解答例】

ソ連の改革の影響で、東欧諸国ではソ連からの干渉や経済の停滞に反発し、民主化を要求する動きが相次いだ。ポーランドでは「連帯」が政権を握り、東ドイツではベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアではチャウシェスクが処刑され、チェコスロヴァキアハンガリーブルガリアでも政変が起こり、共産党独裁体制が崩壊した。(149字)

 

【分析】

主題:東欧の諸革命について説明する。(150字)

条件:「諸」革命なので、複数の具体例を入れる。ポーランドが具体例としてリード文にあるので、ポーランドは入れておく方がいいだろう。明確な条件がないため、書き方に幅がある問題である。

 

【ポイント/見通し】

一般的な東欧革命の説明を書いて、その後に具体例を述べるという方法が、用語説明としてオーソドックスである。

東欧革命の一般的な説明だけでは字数が余る。

→①国を多く羅列する方法

→②国を絞り、その国のことについての内容を膨らませる方法

の2通りが考えられる。今回の場合、どちらがよいということはないので、書きやすい方を選択すればよい。解答例としては①を採用した。こちらの方が書きやすかったので。国名に不安があれば②かな。

 

【1989年について】以前配布した、冷戦を10年スパンで切る!も参照。

冷戦の最終盤において最も重要な年である。(この前に重要なのは1979年である。それぞれ、1979年シリーズと1989年シリーズを並べてみるよい。)

1979年シリーズソ連アフガニスタン侵攻/イラン=イスラーム革命(ホメイニ帰国)→第二次オイルショックイラクでサダム=フセイン政権誕生/エジプト=イスラエル和平(これ以後、イスラエル和平の対象はパレスチナに)/中越戦争

1989年シリーズ:マルタ会談/東欧革命/ベルリンの壁崩壊(ホネカー退陣)/ソ連アフガニスタンから撤退/天安門事件(第二次)

 

東欧革命のきっかけ:1988年にソ連が「新ベオグラード宣言」なるものを発した。これは、社会主義国(共産圏)に対するソ連の指導性を否定する内容であった。わかりやすく言えば、「今までは武力干渉して民主化運動を潰してきたよね。ハンガリー動乱とか、プラハの春とか。でも、もう弱ってきたので、これからは手出し口出ししないよ。」という宣言である。これを受けて1989年に東欧革命である。ルーマニアチャウシェスク大統領は暴動が起きた時、ソ連に助けを求めたが黙殺された。その結果、1989年12月東欧革命最終盤における処刑であった。チャウシェスク大統領の焦った顔は有名である(YouTubeでも出てくる)。新ベオグラード宣言はあまり試験では問われないが、きっかけとしては重要なものである。