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論述講座 第5回 宿題No.5

(Ⅱ)

【問題】

中華帝国には、それを支えた一連の「仕組み」があった。そのうちいくつかは秦漢時代に採用されたり創始され、20世紀初頭に清が滅亡するまで存続した。そのような仕組みについて、中央が地方を支配する制度、対外関係の原則、正統とされた思想、歴史書の形式の4つの側面から説明しなさい。なお秦漢時代の間に変化があった場合にはそれにもふれること。また解答には以下の用語を必ず使用しなさい。(250字程度)

【分析】

主題:秦漢時代に創始されたしくみを、中央が地方を支配する制度、対外関係の原則、正統とされた思想、歴史書の形式の4側面から説明する。

条件1:秦漢時代の間に変化があった場合はそれにも触れる。

条件2:指定語句 封建制、郡県制、倭奴国王、儒家司馬遷

※注意点1:リード文に20世紀初頭・・・とあるが、よく読んでみると、秦漢時代のことしかきかれていない。歴代王朝のことを念頭に置くのは構わないが、秦漢時代のことを書くべきである。惑わされないようにしよう。

※注意点2:指定語句の「委(倭)奴国王」は(倭)は不要。ここまで気にしていられない。

 

【見通し/ポイント】KP51/54

○4側面で、それぞれ60字程度と判断できる。

○どの指定語句が、どの側面に該当するかを考える必要がある。

○秦と漢の間に変化があったものは、その都度記述すると無駄な字数を消費しなくてすむ。

(1)中央が地方を支配する制度(68字)

地方統治では、秦は中央集権的な郡県制を原則とし、漢では封建制と郡県制を合わせた郡国制が行われたが、武帝の時代に実質的に郡県制に移行した。

(2)対外関係の原則(71字)

漢の時代に国内の諸侯と同様、中国の皇帝と周辺諸国の首長との間で名目的な君臣関係を結ぶ冊封体制が形成され、日本も光武帝から委奴国王に封ぜられた。

(3)正統とされた思想(52字)

秦では法家が正統とされ儒学は弾圧されたが、漢では儒学が官学化されその後の王朝を支える政治思想を形成した。

(4)歴史書の形式(41字)

漢の司馬遷が『史記』を紀伝体で記し、それまでの編年体にかわり正史の標準形となった。

 

【解答例】

地方統治では、秦は中央集権的な郡県制をしき、漢では封建制と郡県制を合わせた郡国制が行われたが、武帝の時代に実質的に郡県制に移行した。外交関係では、漢の時代に皇帝と国内の諸侯の関係を模して、中国の皇帝と周辺諸国の首長との間で名目的な君臣関係を結ぶ冊封体制が形成され、日本の有力者も光武帝から委奴国王に封ぜられた。思想面では、秦では法家が正統とされ儒学は弾圧されたが、漢では儒学が官学化されその後の王朝を支える政治思想を形成した。漢の司馬遷が『史記』を紀伝体で記し、それまでの編年体にかわり歴代王朝に引き継がれた。(255字)

 

【雑感】

冊封体制に関連して、皇帝と国内諸侯の関係を用いて説明したのは枝情報。必須ではない。

歴代王朝に引き継がれたや、後の王朝を支えるとしたのは、「歴代王朝を気にしてますよ」アピール。

 

(Ⅲ)

問1

【問題】

ムスタファ=ケマルの出身母体である民族の本来の故郷と生業、そこからの民族大移動の流れを踏まえて、彼による文字改革以前の文字の名称とそれを使用するようになった歴史的経緯を、その文字の背景にある宗教を受容した時期にも注意しながら、大まかに述べなさい。その際、次の用語をすべて使用し、さらに彼の生まれた時代の王朝名と、彼による文字改革以前と以後の文字にまで言及しなさい。(200字程度)

 

【分析】

主題:ムスタファ=ケマルの出身母体である民族の、彼による文字改革以前の文字の名称とそれを使用するようになった歴史的経緯を大まかに述べる。

トルコ人アラビア文字を使用するようになった歴史的経緯を大まかに述べる。

条件1:トルコ人の本来の故郷と生業、そこからの民族大移動の流れを踏まえる。

→故郷はアルタイ山脈モンゴル高原モンゴル高原の少し西あたり。生業は遊牧民

条件2:アラビア文字の背景にある宗教を受容した時期にも注意する。

トルコ人イスラームを受容した時期は9世紀以降である。

 

条件3:指定語句(モンゴル高原、カラ=ハン朝、セルジューク朝バグダード)をすべて使用

条件4:ムスタファ=ケマルが生まれた時代の王朝名と、文字改革以前と以後の文字を述べる。

 

【見通し】

主題に対し:トルコ人アラビア文字を使用するようになった歴史的経緯を大まかに述べる。

条件1に対し:

○故郷:アルタイ山脈モンゴル高原モンゴル高原の少し西あたり。

○生業:遊牧民

○大まかな民族移動の流れ

 9世紀:ウイグル崩壊後、西進開始

 10世紀:カラ=ハン朝でイスラームが受容され、トルコ人イスラーム化する。この頃トルコ語アラビア語表記するようになる。

 11世紀:セルジューク朝バグダードに入城後、アナトリア小アジア)にも進出する。

 13世紀:アナトリアオスマン帝国が建国される。

条件2に対し:トルコ人イスラームを受容した時期は9世紀以降である。トルコ人初のイスラーム王朝はカラ=ハン朝

条件4に対し:○生まれた王朝はオスマン帝国、○改革以前:アラビア文字 ○改革以後:ローマ字(ラテン文字、アルファベット)

 

以上のことを、条件から漏れることのないように書いていく。

 

 

【解答例】

モンゴル高原で遊牧をしていたトルコ人は、9世紀のウイグル崩壊後西進を始め、10世紀のカラ=ハン朝期にイスラームを受容し、この頃にトルコ語アラビア文字で表記されるようになった。11世紀にはセルジューク朝がバグダート入城後、小アジアにも進出し、13世紀にはオスマン朝は地中海周辺の大帝国となった。ムスタファ=ケマルは第一次世界大戦で敗れたオスマン朝を倒すとともに、文字革命でトルコ語アラビア文字からラテン文字表記に改めた。(208字)

 

【雑感】

トルコ語アラビア語表記し始めた時期だが、ここはイスラームの受容と一致させておけばいい。これが一番ストレートな道筋である。

モンゴル高原「西方」と書いてもいいだろう。トルコ人の現住地は、モンゴル高原アルタイ山脈の間くらいなので。もちろんモンゴル高原でもOK。

条件に、歴史的経緯を大まかにとかいてあるので、一応オスマン帝国が地中海周辺の大帝国に成長した点を指摘した。この部分は条件から読み切ることは難しいので、枝情報程度として表記した。

ラテン文字をローマ字と書いても問題ないだろう。

この問題は、条件でガチガチなので、それに従って書けば自然と200字程度になった。一項目何文字などと考えるスキすらなかった。むしろこれくらい縛ってくれるほうが、読解力と基本的に知識があれば書きやすいと思う。

 

問2

【問題】KP19

被支配民族の宗教や習慣に寛容であったアケメネス朝ペルシアでは、さまざまな言語と文字が使用された。主要な言語・文字の使用状況について、次の用語をすべて使用して簡潔に述べなさい。ただしその際、どの言語がどの文字で表記されたかに留意すること。(80字程度)

【分析】

主題:アケメネス朝ペルシアで使用された、主要な言語・文字の使用状況を簡潔に述べる。

条件1:指定語句(古代ペルシア語、楔形文字、共通語)

条件2:どの言語がどの文字で表記されたかに留意すること。

 

【見通し】

ペルシア人母語である古代ペルシア語が、公用語として楔形文字で碑文などに記された。

一方帝国内の共通語としては、商業民を中心にアラム語がアラム文字で表記された。

 

【解答例】

ペルシア人母語である古代ペルシア語が、公用語として楔形文字で碑文などに記された。一方帝国内の共通語としては、商業民を中心にアラム語がアラム文字で表記された。

 

【雑感】

見通しと解答例は一文字も変わっていない。

条件に「使用状況」とあるので、公用語・碑文・商業民という単語を入れた。状況説明である。公用語については、指定語句に「共通語」があるので対義語的なイメージで使用した。

アラム語ってアラム文字でいいの?直球すぎん?」と思った人。いいんです。

200字程度の論述を練習してきた者にとっては、80字は要素を外すことができない分、逆に難しく感じたのではないだろうか。問題の分析に基づいて、試験時間が許す限り要素を慎重に検討したいものである。

 

問3

【問題】

ロシア語などで使用されるアルファベットはキリル文字とも呼ばれる。キリル文字はスラヴ語を表記するために考案されたが、キリル文字普及の宗教的背景について、次の用語をすべて使用して述べなさい。(100字程度)

 

【分析】

主題:キリル文字普及の宗教的背景について説明する。

条件:指定語句(ビザンツ皇帝、ギリシア正教、ブルガール人(ブルガリア人)、バルカン半島

 

【見通し】KP97

キリル文字ギリシア正教を布教する宣教師たちが考案した。

・その宣教師たちはビザンツ皇帝が派遣した。

ギリシア正教が広まるにつれて、スラヴ語を表記するキリル文字も普及した。

ギリシア正教を受容したのは、ロシア人、ブルガール人、スラヴ人たちである。バルカン半島方面。

 

【解答例】

キリル文字ビザンツ皇帝がギリシア正教布教のために派遣した宣教師たちにより考案された。その結果ロシア人、ブルガール人やバルカン半島スラヴ人が改宗し、スラヴ語を表記するキリル文字も普及した。(95字)

 

【雑感】

よくもこれほど教科書通りの論述を出せたなというくらい、教科書通り。知っていれば勝ち。背景知識がないと、「ビザンツ皇帝」が使いにくかっただろう。

ロシア人と入れたのは、リード文にロシア語とあったから、気を使ってのことです。歴史的経緯から言えば、セルビア人でも問題はない。

キリル文字は考案者のキュリロスが語源とされているが、違うという説もある。また、彼が布教したのはチェコ方面であって、バルカン方面ではない。字数からいっても表面的な記述にとどめるのがよいだろう。表面的に答えるか、細かい知識を詰め込むかは、分析段階の判断にかかっている。やはり分析から見通しまでのフレームワークが論述を成功させるキーである。